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日本とブラジルの130年—日系二世としてルラ大統領の来日を想う|H&Aポルトガル語教室

更新日:4月6日

Oi gente! Tudo bem?



 

 今年2025年は、1895年に日本とブラジルが正式に外交関係を樹立してから、130年となります。日本ブラジル外交関係樹立130周年を記念し、国賓として2025年3月24日来日したブラジルのルラ大統領夫妻が、天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会に招かれましたが、晩さん会のあいさつの中で天皇陛下は、過去にブラジルを訪問した際、「日系人の苦労や努力を感じた」とし、迎え入れたブラジル国民の「厚意を忘れることはできない」と話されました。


 このごあいさつにあった「過去にブラジルを訪問した際」というのは、天皇陛下が皇太子として、2008年6月、すなわち1908年に最初の日本人がブラジルに移民してから数えること100年目にブラジルを訪問されたことを指しているのだと思いますが、サントス日本人会を訪問された際、日本人会会長として皇太子をお出迎えしたのが、今は亡き私の父でした。


 今、私の家には、その時に演台に立ち話をする父と、その父を見つめながら、朗らかな表情で耳を傾ける当時の皇太子(現在の天皇陛下)の写真が飾ってあります。この写真を見ると、父の苦労が目に浮かび、そして父が果たした役割を誇りに思うとともに、日系移民の歴史に改めて思いを致すことができます。


1. 日本とブラジルの関係は、家族の歴史そのもの

 私の父が日本から最初に向かった土地は、実はブラジルではなく、ブラジルの隣国ボリビアでした。1957年のことです。ボリビアの荒れ地を開墾することが、最初の仕事だったそうです。その後日系企業に勤めたのち、縁あって1965年にブラジルに渡っているのですが、南米へ移民した当初は、厳しい労働環境と異文化への適応に苦労し、本当に大変な思いをしたと、よく話をしていました。


 戦後、まだまだ経済的に厳しかった日本を離れ、夢と希望を胸に新しい土地へ向かったのですが、その先に待っていたのは、決して楽な道のりではなかったそうです。日本とは気候も文化も大きく異なるボリビア、そしてブラジルの地で、一から暮らしを築くことは、並大抵のことではなかったはずです。 言葉の壁、価値観の違い、そして社会的な偏見。 それでも父は懸命に働き、母は家庭を守り、家族のためにたくましく生き抜き、私を育ててくれました。


 この移民政策が、現在の日本とブラジルの関係を築く上で重要な役割を果たしているわけですが、私を含むブラジル日系人にとって、今回のルラ大統領の来日は、ただの外交イベントではなかったと思います。それは、「日本とブラジルの関係が家族の歴史そのもの」だからです。今回のルラ大統領の訪日、そして皇居・宮殿での歓迎行事を見ていると、様々な思いがこみあげてくるのですが、今回は今は亡き父に思いを馳せつつ、この130年の歩みを振り返りながら、この訪問が持つ意味を考えたいと思います。


2. 日本人移民が築いたブラジルでの歴史

 1895年、日本とブラジルは外交関係を樹立し、両国の交流が始まりました。この時期、まだ移民は始まっていませんが、外交関係が整ったことで、両国間で人々の往来が徐々に活発化していきました。


 その後、1908年に正式に日本からブラジルへの移民が始まりました。ブラジルは、19世紀の終わりまでは、アフリカからの奴隷労働にその労働力の多くを依存していましたが、1888年にブラジルで奴隷制度が廃止されて以降、新たな労働力が必要となり、アフリカ以外からの移民受け入れが始まりました。当初は、主にヨーロッパからの移民を奨励していましたが、ヨーロッパ系移民は過酷な農場労働を嫌がる傾向があったため、ブラジル政府はアジア、特に日本や中国に目を向けるようになったのです。


日本移民ブラジル上陸記念碑(サントス)
日本移民ブラジル上陸記念碑(サントス)

 日本人移民は当初、コーヒー農園の労働者として受け入れられました。彼らは勤勉で、労働契約を全うする人が多かったため、次第に「良い労働者」として評価されるようになり、ブラジルの経済発展にも大きく寄与することとなりました。コーヒー農園での過酷な労働や厳しい生活環境により、現地社会との接点を持つのことは簡単ではなかったようですが、日系移民たちは次第に強固なコミュニティを築いていきました。


 一方で、第二次世界大戦後にブラジルに渡った移民たちは、新たな課題に直面することとなります。日本が敗戦国となり、戦後の経済的困難とともに、敗戦国からの移民に対する偏見も存在していたため、日本からの移民に対して、否応なく冷ややかな視線が向けられることがありました。戦前の移民が築いたコミュニティに助けられることもありましたが、それでも依然として言葉や文化の壁、社会的偏見を乗り越えてゼロから新しい生活を作り上げていくのは、並大抵のことではなかったのです。


 ブラジルでは「日本人は勤勉だ」とよく言われますが、この評価は単なる美談ではなく、移民たちが生き抜くために懸命に働いた結果として生まれたものだったのです。


3. サントス日本人会と父の尽力

 ブラジルの日系社会にとって大切な存在の一つに、サントス日本人会があります。サントス市は、日本移民の玄関口として知られる都市ですが、第二次世界大戦勃発により日本とブラジルの外交関係が断絶し、残念なことにサントスは日系人に対する弾圧の舞台となってしまいました。


 1942年、国家安全保障の名の下に、サントス市に住む全ての日本人が24時間以内にサントス市を離れることを余儀なくされ、 旧サントス日本人学校は、ブラジル政府に接収され、 長い間、連邦政府や軍に占拠されていました。 戦後すぐに返還されたかというと、残念ながらそうはならずに、1946年には国有財産として接収されてしまいました。


 その後、日系コミュニティはこの建物の返還を求め、 長年にわたり運動を続け、日本人ブラジル移住100周年となる2008年を迎えるにあたり、 私の父はサントス日本人会の会長として、返還運動を本格化させ、2006年に連邦政府国有財産局との間で「使用権」の無償譲渡契約を結び、 ようやく日系コミュニティは文化活動や日本語教育の拠点を取り戻すことができたのです。この時、父はルラ大統領とも会談し、日系社会の大切さを伝えました。この建物を取り戻すために戦った期間は、約60年にも及びます。下の写真は、サントス日本人会の会館内に展示されている「バイシャーダ(サントス)の日系人が、1946年に接収された不動産の返還に向けて団結」というタイトルの記事です。右手前に写っているのが父です。


バイシャーダ(サントス)の日系人が、1946年に接収された不動産の返還に向けて団結
バイシャーダ(サントス)の日系人が、1946年に接収された不動産の返還に向けて団結

 そして2008年6月、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)をお迎えし、 改修された会館の落成式が行われました。 その瞬間、日系ブラジル人の歴史に新たな1ページが刻まれたのです。現在サントス市の日本人文化交流スペース(旧サントス日本人学校)は、Hiroshi Endo espaço cultural と名付けられています。の功績が称えられ付けられて付けられた「Hiroshi Endo」これが私の父 遠藤浩の名前です。


Hiroshi Endo espaço cultural
Hiroshi Endo espaço cultural

その後、父は日本政府から勲章を授与されているのですが、その主な功績は


  • サントス地域の日系社会の発展に貢献し、日系人の社会的地位向上とブラジル社会との調和を促進したこと

  • 日系福祉団体を通じて、日系人の福祉向上に寄与したこと


とされています。


 父の授章の記事は、次のURLで詳しく述べられています(ポルトガル語です)。写真も掲載されていますが、右から2番目が私の父、一番右が私の姪です。



4. ルラ大統領とブラジルの日系社会

 ルラ大統領は労働者階級の出身であり、以前の大統領就任期間を含め、貧困層のための政策を推進してきました。​そのルラ大統領が日本を訪れ、日系社会や日本との関係強化に関心を寄せていることは、非常に意義深いものだと思います。そして今回の訪問では、日系社会へのさらなる支援策が議論され、教育・文化交流の促進が約束されました。​​


 さらに、ルラ大統領は、今回の来日に先立ち、第二次世界大戦中にブラジル政府が日本人移民を迫害したことについて、「私も謝罪の気持ちを持っている。謝罪は人道的な行為で、誤りを認めることは重要だ」と述べています。 ​また、少し前になりますが、2024年7月には、ブラジル政府が、大戦中に日本人移民を「敵性外国人」と見なして居住地から強制退去させた「サントス事件」と、戦後の動乱に伴う日本人の収監について公式に謝罪もしています。これらの一連の謝罪は、過去の過ちを認め、未来志向の関係を築こうとする姿勢の表れだと思います。


 今回のルラ大統領の訪日が、日本とブラジルの関係をさらに深め、現地の日系人にとっても新たな可能性を生み出すきっかけとなることを期待しています。


5. 環境問題と未来への責任

 ブラジルといえば、アマゾンの森林保護が世界的な課題となっています。しかし、この問題は決して最近始まったものではなく、長い歴史の中で形を変えながら続いてきたものです。


 私の両親も、移住したばかりの頃は、土地を開墾しながら生活の基盤を築きました。森林を切り開き、農地を作り、作物を育てる――それは当時、「開発」と呼ばれ、社会の発展を支える行為と考えられていました。日本から移民した人々にとっても、よりよい生活を求める中で、自然と向き合いながら生きることは避けられない現実でした。


 しかし、時代は変わり、いまや環境問題が人類全体の責任として問われる時代となりました。開発の名のもとに森林を切り拓いてきた歴史を見つめ直し、未来世代のために持続可能な方法を模索することが求められています。今回のルラ大統領の訪日では、日本とブラジルが環境技術の協力を強化し、持続可能な森林保護に向けた新たなパートナーシップを結ぶことが発表されました。


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 戦前・戦後の歴史を通じて、日本とブラジルの関係は幾度となく変化してきました。時には対立し、時には支え合いながら歩んできた両国だからこそ、過去の問題を清算し、共に未来に向けた責任を果たすことに大きな意味があると思います。日本の環境技術とブラジルの豊かな自然が手を取り合うことで、両国の歴史に新たなページを刻むことができると信じています。


おわりに

 日本とブラジルの移民の歴史は、単なる移住の物語ではなく、両国間の深い絆と変革の歩みを象徴していると思います。


 130年前、日本人は新天地を求め、遥か遠いブラジルへと渡りました。未知の土地で、彼らは新たな生活を築くために努力を重ね、やがてブラジル社会の一員として根を張っていきました。私の両親もまた、その歴史の中で、希望とともにブラジルへと渡り、厳しい環境の中で人生を切り開いていきました。


そして今、私は日本に住んでいます。


 ルラ大統領の来日は、単なる国際関係の一幕ではなく、過去の歴史を振り返りながら、未来を見据える重要な機会となりました。日本とブラジルの絆は、単なる国と国との関係ではなく、移民として生きた人々の歴史と、その想いが積み重なって築かれたものだと思います。だからこそ、この絆は今もなお進化し続け、新たな形を生み出していくのだと信じています。


 今回の訪問を通じて、経済・文化・環境といったさまざまな分野での協力が強化され、日系社会への支援も新たな段階へと進もうとしています。戦前・戦後の移民たちが苦難を乗り越えて築き上げたものを礎に、これからの世代がさらなる発展へとつなげていく——。その過程に、日本とブラジルが共に手を携え、より良い未来を形作る意義があります。


 私の父・遠藤浩がサントス日本人会の再建に尽力し、60年の歳月をかけて日本人コミュニティの権利を取り戻したように、私もまた、日本とブラジルをつなぐ架け橋となるために、小さな一歩を積み重ねていきたいと思います。


最後にお知らせです!


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